稲村ヶ崎の歴史|万葉の「見越しの崎」から国史跡まで

岬はただの景色ではなく、古代から現代までつづく歴史の一線です。時代ごとの顔をたどります。

最終更新:2026年10月27日

古代・中世

『万葉集』には、この一帯が「見越しの崎」の名で詠まれています。良質の砂鉄が採れる浜として知られ、古代にはここで製鉄が行われていたとも考えられています。

三方を山に囲まれた鎌倉にとって、由比ヶ浜と七里ヶ浜を分けるこの岬は西の境にあたり、陸路で西から迫る勢力にとって越えるべき一線でもありました。

近世・近代

江戸〜明治には、太刀を海へ投じる場面が絵師たち(歌川広重、月岡芳年ら)の画題となりました。幕末には異国船を監視する台場が置かれ、第二次世界大戦中には岬の岩に地下基地が掘られています。

1910年(明治43年)には沖で逗子開成中学校のボートが転覆し、多くの生徒が亡くなりました(「慰霊碑」のページへ)。

現代

1934年(昭和9年)、「稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)」として国の史跡に指定。1990年にはこの岬の名を冠した映画『稲村ジェーン』が公開され、湘南のサーフカルチャーを象徴する地名として広く知られるようになりました。

よくある質問

稲村ヶ崎の歴史を教えてください。

『万葉集』に「見越しの崎」と詠まれ、鎌倉の西の境として古くから意識されてきました。幕末の台場、1910年のボート遭難、1934年の国史跡指定、1990年には映画『稲村ジェーン』の舞台となるなど、時代ごとに異なる顔を持ちます。

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