稲村ヶ崎の新田義貞伝説|太平記の太刀と潮
稲村ヶ崎という地名は、風景としてよりも先に、この一場面として広まっていきました。
最終更新:2026年10月27日
太平記が伝える夜の物語
元弘3年/正慶2年(1333年)、鎌倉幕府を攻めた新田義貞は、切り立つ崖と波に阻まれてこの岬を越えられずにいました。『太平記』はその夜のことをこう伝えます――義貞は稲村ヶ崎の波打ち際に下り、黄金の太刀を海へ投じて龍神に祈った。すると潮は大きく引き、干潟となった岸を軍勢が駆け抜け、鎌倉は落ちた。
史実としては、干潮の時機を捉えた進軍と見る説が有力で、天文計算からは日付の記述に誤りがあることも指摘されています。それでも、太刀と潮の物語はこの岬の名とともに語り継がれてきました。
国の史跡に
1934年(昭和9年)、「稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)」として国の史跡に指定されました。景勝地であると同時に、日本史の一場面が刻まれた土地として保存されることになりました。
詳しい歴史の流れは「稲村ヶ崎の歴史」のページもご覧ください。
よくある質問
新田義貞と稲村ヶ崎の関係は?
『太平記』によれば、1333年に新田義貞が稲村ヶ崎の波打ち際で黄金の太刀を海へ投じて龍神に祈ると潮が引き、軍が越えられたと伝わります。史実としては干潮の時機を捉えた進軍ともされ、1934年に「新田義貞徒渉伝説地」として国の史跡に指定されました。
稲村ヶ崎という名前の由来は?
『太平記』の太刀を海へ投じる場面が絵になる主題として好まれ、多くの絵師が描きました。岬の名は、風景としてよりも先に、この物語として広まっていきました。